50周年に向けて

2021.03.01

1997年4月1日、私は藤崎電機に入社しました。創業25年目の春です、それから24年が経過し、50周年が間近になってきました。
50周年までに数回にわたり、ファウンダーが書き綴った「山路来て」の続編を書いていこうと思います。

山路来て 続編(その1)

私が入社し最初に任された仕事が辰巳工業団地への社屋移転でした。当初、基本計画として2種類のレイアウト案が造られておりました。それは非常にシンプルなもので敷地奥に社屋工場を建設するイメージでした。この案は当時の圓藤知事の紹介で、徳島の設計事務所に依頼して書かれたものでした。全く特徴の無い物で、私からファウンダーに「任せていただけるのなら、大林組の設計施工で進めさせてほしい」と申し出ました。

ファウンダーからの条件は「社屋工場の色彩はイタリアンブランド、特にロベルタの深い色を使うこと」でした。
それを受け私は別途下記の方針を立て計画を進めたのです。

  1. 環境にやさしい社屋であること(太陽光・風車・エコアイスの採用)
  2. 元気あふれる伸びゆくベンチャーをイメージする社屋(現在のイタリアンカラー)
  3. 社員がリラックスできる(中庭にカフェテリアを設ける)
  4. MMSDをアピールできる(3階から見学できるショールーム化)
  5. 100人の社員が集まる会議室を設ける(パーティションで3か所に区切り多目的の利用)
  6. 身障者にやさしいユニバーサルデザイン(障害者用トイレ、エレベータ、スロープの採用)
  7. オフィスの什器、特に椅子は良いものを採用する
  8. 各フロアーの色彩を変える(カーペット、椅子、壁紙をフロアー毎に変える)
  9. 出来るだけ県や国の補助金を利用する

1997年5月から検討を開始、8月ごろまでに設計を終え、半年後の2月には完成し、3月に移転をしました。
今思えば非常にタイトなスケジュールでした。

さらに、辰巳工業団地進出の条件として、社員を20名増やすこととなっていました。これは翌年新卒社員を16人採用、そして翌年で20名増を達成したのです。当時ファウンダーにはちょうど橘湾の建設工事がある、この建設工事に殆どの新入社員を入れ、そこで私が教育しますと宣言し、55名の社員を75人に急増させたのです。

辰巳社屋建設後、私は工事部の部長代理から総務部長になります。また、併せて橘湾工事所の責任者をするよう命じられたのです。当時橘湾の建設工事が本格化する前で、本体工事の営業中でした。当初の営業目標を達成することは出来ませんでしたが、創業以来初の高額で受注し、最盛期には400人以上の作業員に協力していただきました。

私自身毎日、朝は工事事務所に出社、午後は本社に移動して総務部長として働くことを2年間続けました。今でも皆で地下洞道幹線ケーブルを、声を掛け合い引いたことを思い出します。工事は多岐にわたり、地下洞道ケーブル敷設、外回りトレイ設置工事、本館建屋照明工事、石炭サイロ内ケーブル工事、監視カメラ設置工事、タービン回り配管配線工事、作業員宿舎電気工事など、ジェイパワー様を中心に様々な工事を経験させていただきました。結果的に、27期には売上、利益共に過去最高の数字を達成したのです。

橘湾火力発電所の建設が終わりに近づいた27期、中長期計画ではMMSD事業を立上げ、次の成長へとつなげるように計画をしていました、しかし、そう甘くはありませんでした。大塚製薬様の新薬製造用に開発した試作機は完成し、大塚製薬様に購入していただくべく見積もりを提示したのですが、結果的にターゲットにしていた新薬が承認されずに、製作した装置を購入いただけなかったのです。

そこで、その装置を1998年には住友商事、IHIと共同で粉体工業展へ出展。さらに、徳島チャレンジメッセでも優秀賞を受賞、その賞金を元手にフランクフルトで開催されたAchema(世界最大の化学機器展)にも出展をいたしました。

しかし、化学機器業界での知名度は全くなく、さらに、当時の常識を覆す数ミクロンの微粉体を製造するスプレイドライヤーであるため、市場になかなか受け入れていただけない年月を過ごすのです。ノズルのアピールを展示会で行っていましたが、製品化自体も不確かな状況でした。
そこで、知人のつてで、当時の業界最大手企業の技術部長をヘッドハンティングし、製品化を実現しました。

結果的に最初の販売は神奈川県のベンチャー企業でラボ機購入後、製造用大型機の注文をいただきました。しかし、その会社が装置製造途中で資金調達出来ず、資金回収もままならず、そして、製造途中の大型機が手元に残る結果となってしまったのです。

代表取締役 藤崎耕治